日々のあれそれ

思いついたこと、感じたこと、忘れたくないことを書き留めます。

煙草の匂い、過去の記憶

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私が敬愛してやまないライター、カツセマサヒコさんが5日間に渡る連載小説を公開した。
タイトルは「彼女の匂いがわからない」。
 
そのシンプルな題名に、心臓の一部がキュッとつままれるような切なさを覚えた。

 

“匂いは、鮮明に過去を呼び起こすトリガー”であるということを知ったのは中学生の頃だった。
 
当時、カバーが手汗でよれよれになるのも気にかけず、貪るように読んでいた少女漫画『NANA』の15巻。ヤスの台詞が、強く印象に残っている。
 
嗅覚を司る部分が記憶や感情を司る場所と直結してるんだよ。視覚なんかは別の場所を経由するんだけどね。だから匂いが一番記憶を鮮明に呼び覚ますんだ
 
その時の私は、まだほんの14歳で。
何十巻と続く大作の、たった1ページ、小さな3つの吹き出しにきちんと収められた台詞の意味を深く理解することなど到底無理だった。
 
 
忘れかけていた、その台詞を反射的に思い出したのは、それから6年後。
 
バイト終わりにふらっと立ち寄ったコンビニの前にある、窮屈そうな喫煙スペースを横切ったときだった。
 
ほろ苦いくも深い煙草の匂いが、そっと鼻をかすめる。
 
あ、と思った。
 
 
店内に入るなり、意味もなく雑誌コーナーの前に立ち、頭の中で勝手に再生されるひとつの思い出に思いを馳せたーー
 
 
「あすかちゃん、お迎えきてくれはったよ」
 
声をかけられ、入り口に目を向けると、少し腰をかがめた祖父の姿が見える。
 
共働きで忙しかった両親の代わりに、保育園まで私を迎えに来るのは祖父の務めだった。
 
周りの子が、同じ時間に迎えに来たお母さんに思い切り抱きつき、これ見よがしに甘えている横で、冷静に靴を履いていた気がする。
 
祖父が迎えに来ることに不満があったわけではない。
 
むしろ、お絵かきの時間に両親ではなく祖父の似顔絵を描くくらいには好きだった。
 
 
駐車場に停めてある、車高の低い白色の車。それが祖父のものであると確認すると、私は一直線に走った。
 
勢いよく後部座席のドアを開けると、ほろ苦い煙草の香りが鼻をくすぐる。
 
私は、この煙草の匂いがたまらなく好きだった。
 
 
車内の渋い茶色をしたシートに染み込んだその香りは、元が煙草であるということは信じられないほどに、どこか優しさを感じた。
 
祖父は運転席に座ると、エンジンをかける前に煙草に火をつけ、口からゆっくりと白い煙を吐き出す。
 
私は、その煙が茶色のシートに気持ちいいほどスッと吸い込まれていくのを、ただただ眺めていた。
 
 
保育園の頃は、毎日のように乗っていた祖父の車も、小学生、中学生と年を重ねるごとに乗ることが少なくなっていった。
 
私が高校生に上がる頃には、祖父もあまり車に乗ることがなくなり、大好きだったあの匂いが、鼻だけでなく、頭からも少しずつ遠ざかっていくような
 
そんな気がした。
 
 
ふと、思考を現実に戻すと自分が全く興味のないジャンルの雑誌を手に持っていることに気づく。
 
そのまま、パラパラとページをめくり、元の場所へと無造作に雑誌を戻した。
 
 
衝動的に煙草が並べられた棚へと目を向ける。視力が落ちたのか、何一つ銘柄の文字が読めない。読めたところで、祖父が吸っていた煙草が何だったのかは思い出せないはずだった。
 
 
適当に買い物を済ませ、もしかしたらと一抹の希望を胸に喫煙所へと目を向ける。
 
懐かしい香りを纏っていたあの空間には、もう誰もいなかった。
 
しばらくその場に腰を下ろし、何をするでもなく通り行く車をぼーっと眺める。
 
 
実家の車庫に、祖父の車はもうない。
 
けれども、ふいに煙草の焦がれた香りが鼻をかすめるたびに、茶色のシートに染み込んだ、深くて苦くて優しいあの匂いを探してしまう。
 
 
車から降りてきた一人の男性が、ポケットから煙草を無造作に取り出し、ライターで火をつけながらこちらへ向かってきた。
 
私は、その場でゆっくりと立ち上がり、これまた無造作に停められた自分の自転車へと歩きだす。
 
すれ違いざま、さっきとは違う煙草の香りが鼻をくすぐった。
 
 
大きく息を吸いこんでみる。
 
 
6年前に読んだ、何十巻と続く大作のたった1ページ、小さな3つの吹き出しにきちんと収められた台詞の意味を
 
やっと、理解できた瞬間だった。